藤原ヒロシといえば、90年に一世を風靡した裏原ブームの火付け役だ。その後自身のブランド、フラグメント(FRAGMENT DESIGN)では、幅広いブランドやスポーツメーカーにデザインを提供し、ルイ・ヴィトンやブルガリ、モンクレールとのコラボレーションも記憶に新しい。この20年間における自身の活動とファッション界の変遷を重ね合わせて、話を訊いた。
──『VOGUE JAPAN』(当時は『VOGUE NIPPON』)が創刊した1999年。ヒロシさんは35歳でしたが、何をなさっていたのでしょう。
98年から99年にかけて、原宿のショップ「レディメイド(READY MADE)」を終わらせる準備を進めていました。理由としては、1999年は1000年に一度の区切り、何か物事をやめるチャンスだと思ったから。
世間は、世紀末でコンピューターが停止すると騒がれた“2000年問題”を話題にしていましたね。実は、1999年12月31日に父を亡くしたんです。お店をたたみ、コンピューター問題も難なくクリアしたけれど、父親の死だけは解決できなかったことを覚えています。
──創刊については覚えていらっしゃいますか。
「やっと日本にも黒船が来たんだ」と思ったことは記憶にあります。日本はそれまでマガジンハウスの雑誌一強でしたから。
──この20年間で、ファッション界で大きく変わったと感じることはありますか。
『VOGUE NIPPON』が創刊される少し前に感じた兆候ですが、「みんな仲良くなってしまったな」と思っていましたね。以前は、それぞれファッションにプライドがあり敵対していたからこそ、熱量があったんです。マガジンハウスの『anan』 vs 講談社の『JJ』みたいにね。
でも、だんだん、雑誌にも掲載されるものが同じようなものになっていった。80年代に僕らがやっていたことは、いろいろなものをミックスしていかに他と違うものを作るかだったけれど、この頃からメジャーな媒体の雰囲気が似通ってきた。思い返すと、なぜあんなに敵対していたんだろうとも思うけど(笑)。
──SNSで情報をシェアすることが当たり前になった現在は、媒体が取り上げる情報にも大きな差がなくなってきているかもしれません。
そう思う。当時は、ファッションも興味の対象も、趣向によって異なっていたので面白かった。両者に隔たりがあるからこそ、各々のカルチャーが盛り上がっていました。
──当時はどのようなことに夢中になっていましたか。
僕個人は、99年と現在で好きなものがほとんど変わらないと思う。すでに裏原の大ブームも終焉していただろうし、淘汰されて周りのブランドも落ち着きを取り戻していた頃だったはず。当初あった“手作りでものを作る”という感覚はなくなっていたんじゃないかな。大きな企業と組んでものづくりを始めた頃でもありますね。
──裏原のブランドが確立されたということだと思います。レディメイドの閉店後、フラグメントも自社生産をやめられました。
裏原のブランドが大きくなっていく中で、僕自身は自分の会社を大きくするのは無理だと思ったんです。97年から始めた「レディメイド」も、コラボレーションのアイテムのみを扱うお店でしたし。
例えば、アンダーカバーから発売された靴が良かったら、ジョニオ(高橋 盾)に相談して一緒に作る。ア ベイシング エイプ(R)やネイバーフッドも同じで、一緒にTシャツを作っていました。もちろん、向こうから声をかけてくれることもあったと思います。
──99年の創刊号から現在までの『VOGUE JAPAN』をいくつか持ってきたのですが、印象に残っている年はありますか。
正直、並べてみるとみんな同じに見えるよね(笑)。90年以降はファッションもカルチャーもあまり進化は見られない。今は90年代のリバイバルだとよく聞くけれど、そもそも90年代が終わっていないから、今も残っているように思います。60年代、70年代、80年代のファッションは、それぞれ完全に死んだタイミングがあったけど、90年代はなだらかに変化しているだけ。
インターネットが普及した影響も大きいけど、中には未だに90年代に懐かしさを感じていない人もいると思う。だからヴォーグ ジャパンの20年間にも大きな変化を感じない、というのが正直な印象かな。
──確かにモデルの顔ぶれもトレンドこそあるものの、ファッションには60年代、70年代、80年代にあった決定的な変化はないのかもしれません。
モード誌に出るようなモデルは、80年代後半から大きく顔ぶれが変わる瞬間があったと思います。1991年、ペレストロイカのロシアが崩壊したとき、急に北欧系のモデルが増えた。それまで日本にいたファッションモデルといえば、アメリカやロンドン、パリから来た人ばかり。コカコーラのCMに出てきそうな煌びやか人たちでした。
それが、もう少し暗いムードをまとった、今でいうところの“モードっぽい人”が続々と来日し始めた。よくDJをしていたクラブでバラルーシから来た人に会って、「ベラルーシ?今まで聞いたことがなかったな」と思ったことを覚えています。
それは、東京に限らず世界中で起こっていたことだと思う。それまでは、スーパーモデルと呼ばれる人たちは体が大きくて目がぱっちりしたタイプの人たち。それが、目が細くて体も華奢な人が増えていった。ベルリンの壁が無くなったのもその頃かと。創刊号のモデルたちは、すでにその仄暗い雰囲気がありますね。
──その後、モデルは黒人やヒスパニック系、現在ではアジア系の活躍も目立つようになりました。ヒロシさんが手がける、銀座ソニーパークの「ザ・コンビニ(THE CONVENI)」では、「マグニフ(magnif)」のセレクトによる古雑誌が並ぶラックがあります。ご自身は、何年代の雑誌に魅力を感じますか。
80年代の雑誌ですね。やはり、特定の人にしか持っていない情報が掲載されていました。90年代にもその余波はあったはず。2000年以降はインターネット、特にSNSの方が情報のインパクトは大きくなったと思います。でもその分、深い内容の取材ができる、または名物編集長がいる媒体は強みになったんじゃないかな。
──SNSで情報を発信する側としてはどのような変化を感じていますか。
インスタグラムの存在は大きいと思います。僕自身がフォローしている人はいないのですが、「あの人、何しているのかな」と思ってネット検索してみるとまずアメブロに飛んだりする。でもだいたい5年前くらいで更新が止まっていて、2015年くらいが最新情報になっているんです。
もうブログも書かなくなってしまって、インスタグラムだけが更新されている状況なんですよ。フェイスブックも高齢化しているし。あれはあれで楽しそうだけど(笑)。SNSの進化は本当に早いです。
──そんな中、ご自身のメディア「Ring of Colour」ではブログを綴り続けていますね。インスタグラムだからこそ、発信が面白いと思うことはありますか。
ありますね。手軽だし、ダイレクトに情報発信ができるわけですから。あと僕は新しいものや情報だけに縛られないので、古いものをいいタイミングで投稿することもあります。情報を出す時期をコントロールできるのは、発信する側にとって大きな変化だと思います。
──SNSは、フォロワーの反応や拡散することも醍醐味のひとつだと思うのですが、どのようにお考えでしょう。
僕は、メディアは一方通行の方がいいと思っています。会話ができたり、コメントが返ってくるよりも、純粋な情報であった方がいい。
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──現在、ブルガリのような宝飾ブランドから駄菓子まで幅広くコラボレーションをされていますが、ラグジュアリーなものもジャンクなものも分け隔てなく楽しむ感覚は、いつ頃からお持ちでしたか。
若い頃からあったと思います。それこそ、パンクのような音楽を好んでいたのが発端じゃないかな。僕の姉は、好きな音楽はディスコで、ファッションもサーフブランドやロベルタ ディ カメリーノなどを着ていました。だから対極だったけど、そういった雰囲気のものもいいなと思っていました。
あと1983年に初めてニューヨークのティファニーのショップを訪れたとき、そこにヨーヨーが売っていたんです。ラグジュアリーブランドがおもちゃを作っている感覚には刺激を受けました。
さらに驚いたのは、店内にロレックスの腕時計やモンブランの万年筆も置いてあったこと。コラボレーションを知ったのは、その時。「こんなものの見方もあるんだ、餅は餅屋という感覚はいいな」と思いました。
──フラグメントが最初にコラボレーションをして作ったアイテムは、ポーターのレコードバッグだったと伺っています。
作るなら吉田カバンでできないかなと思ったのが始まりです。もちろん、吉田カバンみたいなものを自分たちで作ることもできたでしょう。でも自分がいいと思った会社と一緒に取り組めたら、もっといいものができる。
──その10年後に、ルイ・ヴィトンやブルガリ、モンクレールのようなラグジュアリーブランドとコラボレーションすることになるわけですね。
全く予想していなかったですね。その前に驚かされたのは、2001年にマーク・ジェイコブスが率いるルイ・ヴィトンから、スティーヴン・スプラウスと共作したバッグコレクションが出たこと。ハイブランドのバッグに落書きみたいなグラフィティが描かれたインパクトは本当に大きかった。村上隆さんとのコラボレーションより前のことです。ファッション界の常識が変わった瞬間だったし、自らの価値観を壊すようなブランドの姿勢も良かった。
──他に印象的なものや影響を受けたことはありましたか。
中国のアーティスト、艾未未(アイウェイウェイ)のコカコーラの壺という作品。骨董としてすでに価値がある漢王朝時代の壺の価値を否定するために、コカコーラのロゴを描いているのですが、ロゴが入ることでさらに価値が上がってしまうパラドックスが面白い。パンクもそうだけど、何かを台無しにすることで生まれるものが好きです。ゲリラ豪雨みたいに。
──創刊20年を記念して、『VOGUE JAPAN』と「フラグメント」そして「ザ・コンビニ」のトリプルコラボレーションが実現しました。
パーカーとTシャツのパッケージは、シリアルの箱と牛乳パックをイメージしています。『VOGUE JAPAN』のロゴが入ったパーカーは、あえてブートみたいなアイテムを作ったら良いんじゃないかなと思いました。コラボレーション感は薄いけど、“偽物っぽい本物”って着たくなるでしょ。
──デザインをするときは普遍性とトレンド、どちらを重視しますか。
深く考えてデザインはしていないのですが、普遍性を重視したいです。91年に撮影された渋谷の動画を見てみると、街もファッションも成熟して大きな変化が起きていないんですよ。その代わり、ITの進化はこの辺りから急に活発になっていったけれど。もうファッションやポップカルチャーは、トレンドの枠から外れたと言っていいでしょうね。
──20年間を振り返ってきましたが、20年後は何をしていたいですか。
きっとこの業界にはいるんじゃないかな。健康寿命でまっとうしたいと思っていますね(笑)。60年代や70年代は、悪いことも含めて未来を期待するムードがありました。このインタビューも、20年前の話ではなく、99年の僕のように20年後に“何を終わりにするか”にしても良かったのかも知れないですね。そしたら、それまでにみんな何かしなきゃ、と思えるかもしれないしね(笑)。
・コラボアイテムの販売詳細はこちら、または「ザ・コンビニ」オフィシャルインスタグラムから。
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Phots: Kohey Kanno Text: Aika Kawada Editor: Saori Asaka